基本的人権はあるのか?

 基本的人権は存在すると思うだろうか。もしあると考えるなら、その根拠はどこにあるのだろうか。

 こう書くからには当然、「基本的人権は存在しない」というのが私の立場である。

 日本国憲法には確かに基本的人権について記載がある。他の国でも、民主国家なら当然のように憲法内に基本的人権に関する記述があるだろう。しかし、それを存在の根拠にして良いのだろうか。

 「基本的人権の根拠は憲法の記述だ」と言うのは、「聖典に書いてあるから神は存在する」と言っているのに近い。そこには客観的かつ具体的な根拠は一切なく、「そう書いてあるから」という事だけが確固たる理由になってしまう。それでは根拠としては説得力が足りないのではないだろうか。

 「無い事を証明できない」という言説はしばしば宗教やオカルトを信じる人間の間で見られるが、それは「無いから証明できない」とも言い換えられる。人間が認知、発見できない物の存在は否定しないが、あるかないか分からない物を具体的な根拠も無しにあると言い張るのは問題がある。

 しかし一方で、基本的人権という「概念」の意義は認めざるを得ない。私としても(実際の有無は別として)その概念自体が社会から消滅してしまうことは避けたいと思う。

 基本的人権の存在を信じるか信じないかに関わらず、殆どの人にとってはこの概念が支持される社会を選択する事が最も合理的な選択と言える。それは何故だろうか。

 次回の更新ではこの疑問について、「マキシミンルールが作り出す虚構」をテーマに解説する予定だ。次回の更新を期待して欲しい。

「日本人は先進国イチの怠け者」という記事が何故おかしいか

gendai.ismedia.jp

 週刊現代が書いたこの記事が話題にいなっている。大まかにまとめると、日本の労働生産性はG7の中で最下位なのに、労働時間は短い方だ。働き方改革がどうとかいって労働時間を更に削ったら日本は成長しなくなってしまう。怠けないで猛烈に働かないとダメだ。といった内容である。

 これがトレンドに載った際は、全体的に見て批判的な意見で賑わっていた。当然といえば当然である。先ほどの記事の中でも述べられていた通り、今の日本の風潮として長時間労働や企業戦士といった言葉は忌避されている。そのような風潮に対する疑問を、かつて企業戦士と呼ばれバリバリ働いていた人たちの言葉と共に投げかけるといった内容なのだから、それは批判も湧くだろう。

 今回は、批判的な意見が多く見られたこの記事の内「日本の労働生産性はG7の中で最下位なので、もっと沢山働かないといけない」という問題について出来るだけ平易に何がどうおかしいのかを示して行こうと思う。そもそも労働時間が短いのかといった問題については多く議論されているのでそちらを参照していただきたい。興味がある方は先の記事でも用いられている「データブック国際労働比較」で検索してみると良いのではないかと思う。

 まずは問題を明らかにする事から始めよう。労働生産性関する言説の大きな問題は、これが時代遅れの典型のような主張だという点に尽きる。何が時代遅れなのかを具体的に述べよう。経済成長がある程度達成された国にとって、次の課題は高い生産効率を実現する事だ。しかし、先の記事では労働時間を増やす事で更なる発展を目指している。少子化という問題を自ら上げながらも、それを長時間労働で解決しようという愚かしさは特に目に余る。

 労働生産性は生み出された付加価値を分子に、その付加価値を生産するために投入した労働時間を分母にとる。言うまでもなく、分子を増やすか分母を減らす事で、高い生産性を得られる。逆も然りで、分母が増える=労働時間が増える事は生産性の低下を意味する。

 労働時間が増えれば結果として生産できる付加価値も増えるのではないかと思った人もいるかもしれない。残念ながらそれは正しくない。先ほどの記事を書いた人間や、根性論が好きな人間は頑張れば頑張るほど良いと考えているのではないだろうか。当然間違いである。

 「限界生産力逓減の法則」という物をご存知だろうか。ご存じない方のためにわかりやすい例で考えてみよう。ある人物Aはパン職人で、今日はまだ何もしていない。このまま何もしないわけにもいかないので一時間でパンを7個作った。もう少し作ろうと思いもう一時間パン作りをしたが、若干疲れてきたので今度は5個しか作れなかった。更にもう一時間パンを作る事にした。案外疲れが溜まっていたので今度は3個しか作れなかった。かなり疲れてきたがもう一時間くらい作ろうと思った。もうヘトヘトなので1個しか作れず、これ以上の生産は期待できないのでここでやめた。4時間で16個のパンを生産した。(生産関数は)

 極端な例だがこのまま進もう。これは労働時間が増えるとパン職人が一時間に作れるパンの個数が減っていく様子を表している。このように、追加的に投入した労働量に対して得られる生産量が次第に減少していく事を、「限界生産力逓減の法則」と呼ぶのだ。なぜ作れるパンの個数が一定でないのか。それは労働時間が増えれば増えるほど集中力や体力は減少していくからである。パン作りを勉強や部活の練習などに置き換えても良い。同じ事を何時間も続けていくと次第に効率が低下していく事は経験的に知っているのではないだろうか。

 ここで労働生産性について考えてみよう。一時間だけパンを作った時の労働生産性は7/1=7、二時間パンを作った時は(7+5)/2=6、三時間なら(7+5+3)/3=5、四時間だと(7+5+3+1)/4=4で、労働時間が増えれば増えるほど生産性が下がっている事がわかる。分母の増加量と分子の増加量が一定では無い事が理由である。故に、労働時間をむやみに増やしてしまう事は生産性を低下させる事に等しいと言える。

 では、労働時間を削って高い生産性を維持すれば良いのだろうか。それは明らかに違う。パン職人が一時間だけパンを作ってそれを売っても生きていけない。パン職人は生きていくために生産性が下がる事を承知でパンを作り続けないといけないのだ。国全体の経済も同様で、生産性を上げるために労働時間を削るというのは何の解決にもならない。

 労働時間を増やしても生産性は上がらないが、かといって労働時間を減らすと生産性は上がっても所得は増えない事がわかった。ではどうすればいいのか。

 高い生産性を維持しつつ所得も増やすには、パンの生産効率を上げれば良いのだ。パン職人はある会社から、全自動パンこねマシーンを購入した。(計算がややこしくなるので購入費用は考えない)全自動パンこねマシーンはパンの材料を入れてスイッチを押すと自動でパン生地をこねてくれる。この機械を

導入した結果生産効率は飛躍的に上昇した。パン職人のやる事は基本的にパンを焼くだけである。そのため、パン職人は最初の一時間で15個、次の一時間で13個、更に11個、9個と4時間で計48個のパンを生産でき、労働生産性は48/2=12と先ほどよりも高い。(生産関数は)

 さて、ここまでくれば労働時間を増やせ!バリバリ働け!というのがいかに不毛かわかっていただけただろうか。根本的に、日本が今行うべきは長時間労働ではなく生産効率向上なのである。生産性が低いのだから、沢山働かないといけないという主張はひどい矛盾だ。少ない労働時間で高い生産性を実現する事が停滞する日本経済の打開策になるのである。

 少子高齢化が進んでいるのは周知の事実で、投入できる労働量は減る一方だ。そうなった場合には技術革新によって一人当たりの生産性を高めるより他ない。まして個々人の労働時間を増やして何とかしようとするなど論外甚だしい。

 政府は労働時間の規制といった負の圧力ではなく、技術開発に携わる人材の支援、育成関連の予算増大を以って失われた20年からの脱却を目指してほしいと思う。

 わかりにくい部分、疑問に思った部分があれば是非コメントをしてほしい。私も問題の全容を完璧に理解しているわけではないので、読者の方と共に考えられれば幸いだ。

マイノリティに対する寛容さは義務ではない

 皆さんはLGBTの人たちについてどう思うだろう。統合失調はどうか。発達障害の人はどうだろうか。私は前者については特に何とも思わないし、後者についてはその存在から疑義を呈したいと思うが、それは別の機会にしようと思う。適切かどうかはさておき、今回はこれらの人々をひとくくりにしてマイノリティとしよう。

 昨今の風潮として、これらの人々に対して嫌悪感を示す事がタブー視されている。

 私はこのような風潮には疑問を禁じ得ない。疑問は二つある。一つは、「この風潮は前提からして自己矛盾を孕むのではないのか」という疑問、もう一つは「何故嫌なものは嫌と言ってはいけないのか」という疑問だ。

 個別に見ていこう。一つ目の疑問は、「この風潮は前提からして自己矛盾を孕むのではないのか」という物だ。何故マイノリティに対して寛容でなければいけないのか。今流行りのダイバーシティとやらが前提にあるのだろうか。仮にそうだとしたら、これは明らかな矛盾を意味する。ダイバーシティは多様性を意味する。ダイバーシティの考え方からマイノリティに対して寛容であるべきという考えは、画一化された観念だ。明らかに多様性を欠いているではないか。

 価値観の多様性を訴える人間が陥りがちな過ちとしてよく見られるのが、「価値観の多様性を認めるべき」という一つの価値観を他者に押し付けてしまうという行為である。「マイノリティに対する寛容は当然」のような風潮もこれと同じだ。真に価値観の多様性を認めるべきだと考えている人は、価値観の多様性を認めない人間すらも一つの物の見方として認める事が出来る。これができない人間に寛容や多様性を語る資格は無い。

 二つ目の疑問が、「何故嫌なものは嫌と言ってはいけないのか」である。本来人は嫌なものは嫌だという権利がある。社会がそれを縛りつける事などあってはならない。LGBTが気持ち悪いと思う人もいて、それは個人の自由である。もちろん、言論の自由を盾に個人を批判、侮辱していい道理はない。それは放埓であって自由では無い。

 しかし、ここでよく考えてほしい。日頃マイノリティに対して寛容たるべきだと考えているあなたは、特によく自らを省みて欲しい。あなたはロリコンについてどう思うだろうか。ショタコンはどうだろう。ペドフィリアや獣姦はどうだろうか。もう少し具体的に考えよう。例えばあなたは電車の座席に座っていて、隣に一人の男性が座ったとする。男性のカバンには雑誌が入っていて、あなたはうっかりそのタイトルを見てしまった。どうせならタイトルはインパクトがあると良い。「スク水小○生中出しレイプ」にでもしておこう。私の趣味では無い。これは絶対に忘れないで欲しい。

 さて、あなたはどんな反応をするだろう。嫌な顔をするだろうか。持っていた雑誌の概要と気持ち悪いという旨をツイートするだろうか。会話のネタにして笑うかもしれない。それらは、マイノリティに対して寛容たるべきであるという命題と相反する反応だ。その男性はLGBTの人々と同様に、性的趣向が一般的な人とは異なる。しかし、何か罪を犯している訳では無い。何故レズ、ゲイ、バイセクシャルトランスジェンダーには寛容でなければいけないのに、他の性的趣向についてはそのような態度をとるのだろうか。

 もう一つ別の話をしよう。ある人物Aがいたとする。Aは特徴として、時間にルーズ、計画性がない、すぐ物を忘れたり無くしたりする、落ち着きがない、会話が苦手、などが挙げられる。あなたはAをどう思うだろうか。学校の同じクラスにいたとして、仲良く出来る自信があるだろうか。Aが同じバイト先に入ってきて、シフトがいつも被っていたらどう思うだろう。あなたが会社でAの上司だとしたらどうだろうか。Aを叱責したり、Aの愚痴を言ったりしない自信はあるだろうか。

 私はAが同僚や部下なら彼本人にも怒るし、愚痴もいう。クラスメイトだとして仲良くしたくない。あいつはクズだと悪口を言うかもしれない。何故ならAは人を怒らせる事、人に迷惑をかける事ばかりするからだ。この主張に何か問題があるようには思えない。ごく自然な反応ではなかろうか。

 ではAが発達障害だと分かったらどうだろう。先ほど挙げたAの特徴は、ADHDの諸症状からピックアップしたものだ。こうなってくると急に及び腰になる人が出てくる。ADHDであるという事が所与の場合、愚痴や叱責、冷遇や嫌悪が許されないような風潮がてくる。ちょっとでもそういう素振りを見せると、「理解のない人」の烙印を押される。場合によっては自分が冷たい態度をとられるようにすらなる。

 AがADHDでない場合は、ほとんどの人が冷たい態度をとったり、怒ったりすると思う。その差は一体何だろう。これは障害に対する哲学的問いに繋がるので深く掘り下げる事は避けるが、それが個人の性格という範囲なのか、障害なのかの線引きは決して明確ではない。それを念頭に、各々よく考えて見て欲しい。

 話を元に戻そう。「何故嫌なものは嫌と言ってはいけないのか」という疑問だ。「何故日頃嫌なものは嫌と言うのに、対象がLGBT精神障害になるとそれが許されなくなるのか」という表現の方が正しいかもしれない。我々は個々人の好き嫌いに応じて自らの行動を決める権利があるにもかかわらず、昨今ではそれを一部制限するような考え方が大手を振るっている。これのどこがおかしくないのだろうか。

 もちろん、マイノリティに対して寛容である事はあなたの自由だ。しかし、非論理的で合理性を欠いた言動や主張はやめて欲しい。多様性を尊重するべきだと思うなら、そう思わない人を攻撃することはやめるべきだ。それが出来ないなら多様性などと謳わず、「自分が寛容であるべきだと思った対象についてお前らも寛容であるべきだ」と言って欲しい。LGBTに対して理解を示すべきなら、何故他の性的趣向は受け入れないのだろう。何となくLGBTについてはOK、でも他の特殊性癖は気持ち悪い。これのどこが「寛容」なのだろうか。LGBTQという表現をする人でさえ、このような問題を抱えているケースが多い。精神疾患の人には理解を示して、単におかしな人や怠け者には厳しくする理由は何だ。あるいは、逸脱行動をしても精神疾患を盾にすれば許してもらえるのだろうか。

 マイノリティに対する寛容さは義務ではない。それは個々人が決める事だ。我々には嫌なものは嫌と言う自由がある。寛容を誰かに強要することも社会の風潮が人々に圧力をかけることも間違っている。

 正直な話、これから先どんどんおかしな人たちに病名や名称がついていって、健常者が社会やそれらの人々から寛容を要求される世界になっていったらもう御仕舞いだと思う。どう思いどう行動するかはこちらが決める事だ。

 

ecosociopol.hatenablog.com

 

 以前マイノリティに関する記事を書いたので、興味がある人はそちらにも目を通して欲しい。今回は全体的に冷たい雰囲気だったが、そちらではもう少し人間的な事を書いたつもりである。

24時間営業反対に反対

 この頃世間では、24時間営業に否定的な世論が強まっている。最近ではロイヤルホストが24時間営業の廃止を決め、その他の業種についても同様の措置を取るべきだという意見を多く聞く。

 嗚呼、なんと自己中心的な人たちばかりなのだろう。24時間営業に反対している人たちはきっと、仕事が終わってから帰るのが遅くなったり、夜勤や遅番といった勤務体系で働いていたりしないのだろう。

 帰りが遅い人にとって、24時間営業のコンビニや飲食店があるか無いかは非常に重要な問題である。仕事に疲れ空腹だが、スーパーは既に閉まっている。家にも食べるものがない。そんな時に24時間空いている店が無かったらどうなるだろうか。彼らは朝店が開くまで空腹のまま待てばいいのだろうか。それも仕事終わりである。24時間営業を廃止すべきといっている人は明らかにこの問題を無視しているとしか言いようがない。深夜にお店が開いてなくても自分は困らないわけだから、いとも簡単にそのような事を言ってのける訳だ。

 現在夜勤で生計を立てている人からしてもいい迷惑である。夜勤は日中よりも給料が高い。これは日本全国どこに行っても共通の事実である。当然の事ながら、賃金が割り増しされる事を活用して夜間に多く働き生計を立てる人も沢山いる。では、24時間営業が廃止になるとどうだろう。運良く日中のシフトに食い込めても月々の収入は大幅に減少する。運が悪ければタダの余りでシフトにも入れない。生活が成り立たなくなるのだ。無論、朝に出勤するようなフルタイム労働者には一切関係のない話だ。自分は朝起きて仕事に行き、夜に帰宅するだけでいい。どこかのコンビニや飲食店が24時間営業を廃止した所で職にあぶれたり給料が減ったりする事はない。前述のように不便になる訳でもない。

 24時間営業を廃止すべきだと唱える人の中には、「便利さを求めすぎている」だとか、「便利さに騙されてはいけない」といった言葉を口にする人が多くいる。随分と聞こえのいい言葉だ。便利さを求めすぎた結果おかしな方に向かう社会を戒めるつもりなのだろう。随分と偉そうな上から目線の物言いである。

 彼らにとって「便利さ」とは、深夜に小腹が空いたりちょっと飲み足りなかったり、あるいは今週発売の雑誌を読みたかったり通販の支払いをしたかったりといった時にすぐ買いに行けるという意味の、無くても困らない「便利さ」である。これは、24時間営業の店舗を本当に必要としている人にとっての「便利さ」とは大きく程度が違う。

 24時間営業が何故悪者にされているのか一切理解ができない。少人数の無理があるシフトや労働基準法に抵触しかねない労働時間などの根本的な問題が何故か後景に追いやられてはいないだろうか。

 これはロイヤルホストにも責任がある24時間営業とブラック企業問題は無関係にもかかわらず、さも関係があるようにコメントを発表している。それで一躍ヒーロー扱いだ。もっと素直に、採算が合わないからと言うべきではないのだろうか。

 24時間営業を廃止すべきだと考えている人は、それが自分の事しか見えていない、身勝手な意見ではないか今一度よく考えて欲しい。

 勿論経営者側が24時間営業を廃止するならそれは仕方の無い事だ。それならせめて欺瞞に満ちた社会へのアピールではなく、採算が合わないという率直な理由を述べて欲しい物である。

 私は24時間営業反対に反対だ。


異文化との付き合い方

 今回は随分と大きなテーマだ。異文化との付き合い方、特に先進国と発展途上国における文化の相違とその捉え方について考えていく。

 異文化との交流において取られうる立場のうち、両極端にあるのが文化相対主義と自文化中心主義だ。この二つがどのような立場なのか、具体例を交えつつ考えてみよう。

 アフリカのいくつかの国や地域では女性器切除が行われている。手術方法は極めて粗野なもので、不衛生な状況下で麻酔無しで行われる事が多く、使われる道具に関しても医療用のものとは程遠い場合が一般的だ。主な理由としては、大人になるための通過儀礼であったり、女性が淫乱にならないための処置であったりと様々だが、それが存在する明確な説明や社会的な利益はあまりない。

 さて、ここであなたはどのような立場を取るだろうか。これが前述した二つの考え方に関わってくる。先進国一般で受け入れられている西洋的なものの見方、科学的なものの見方を受け入れている人物からすると、女性器切除が合理的とは言えないだろう。中には女性器切除は根絶されるべきだと考える人もいると思われる。そのような人は何を根拠に批判するのだろうか。非合理性だけで批判するなら先進国で行われている宗教行事や祭事もアウトなので、おそらく「人権」や「女性の権利」などの概念を引用する事になる。

 ここで考えて欲しいのは、「人権」や「女性の権利」などの概念自体が、西洋的なものの見方にルーツを持つという点だ。自然科学は基本的には普遍的なもので、イギリスでもガーナでも物を燃やすと酸素が消費されるし、イタリアでもアンゴラでも林檎が木から離れて地面に落ちず宙に浮いていくなんて事はまず起こらない。では西洋的なものの見方も同様に普遍的なものかと聞かれると、必ずしもそうとは言い切れない。

 この問いに対して、「人権」や「女性の権利」などの概念、さらに言えば西洋的なものの見方が全世界共通の普遍的なものだと考えるのが自文化中心主義である。それは言ってしまえば自分の文化が持つ価値観を、異文化に対してより優れていて正しいものとして押し付けている事になる。

 これに相反する立場が、文化相対主義だ。文化相対主義には以下に挙げるようにいくつかの前提がある。

① 異なる文化にはそれぞれ異なるものの見方がある。

② あるものの見方はその内部では合理的である。

③あるものの見方が合理的であるか(または正しいか間違っているか)を客観的に判断できる基準はない。

④すべてのものの見方は文化に相対的である。

 

 これらの前提から、西洋的なものの見方、前述した概念も数あるものの見方の一つに過ぎないと考えられる。

 この考え方には大きく分けて3つの背景があると言われている。一つは啓蒙と称して侵略を続けた植民地時代への反省、もう一つは異文化に対して寛容であるべきという概念、そして最後は異文化に対する軽蔑を表したくないという気持ちだ。

 ものの見方に寛容である事は良い。かつて啓蒙と称して侵略を繰り返したのは自らの先祖である。その反省としての文化相対主義であり、異文化の尊重が重要視されているのだ。

 しかし、文化相対主義にも問題がある。それは「二重の批判の難しさ」というものだ。二重というからには、二つの側面から批判を困難にする要因がある。

 一つ目は「外部からの批判の難しさ」だ。ナチス政権下での反ユダヤ主義政策や、かつてアメリカで行われていた奴隷制度は、文化相対主義の前提に則れば当時の国内では合理性を持つ事になる。外国からは批判できないし、現代のドイツ人やアメリカ人も自国における過去の行いについて批判できない。これは明らかに問題があるだろう。反ユダヤ主義奴隷制の是非は別として、著しい人権無視や大量殺戮を問題視した人間が外部から批判不可能な状況は望ましくない。問題があると思われる政策や文化を一切批判できない事も問題だが、後述するもう一つの批判の難しさと相まって救いようのない自体が起こり得る。

 そのもう一つの難しさが、「内部からの批判の難しさ」である。アパルトヘイトを例に考えよう。文化相対主義において、アパルトヘイトは国内で合理性を持つ事になる。そうすると、被差別者側はそれを批判できないのだ。アパルトヘイトに限らず、社会における同調圧力、物理的・精神的な圧力や強制力に対抗する力や地位がない人間は、それを批判せずに服従するしかない。これは致命的すぎる。差別や迫害、それに基づく肉体的、精神的苦痛が終わる事なく続くのだ。さらに致命的なのは、前述した「外部からの批判の難しさ」のせいで、外から助けてくれる人もいないという状況である。迫害も、差別も、弾圧も、一度始まってしまえば二度と手を出せない。何故なら、それらの行為はある地域やある国内では合理性を持つイデオロギーに則って行われ、それを客観的に間違っているとは言えず、内外共に誰も批判をし得ないからだ。

 自文化中心主義は良くないが、かといって文化相対主義にも大きな欠点がある事が分かっている。それでは異文化に対してどのような立場を取るべきなのだろうか。

 幼い頃から何事も程々が大切だと教わってきたと思う。食べ過ぎも食べなさすぎも体に良くない。全く運動しないと体に悪いが、オーバーワークは体を壊す。異文化に対する態度もそれと同じだ。自文化相対主義であるか、文化相対主義であるかの両極端に囚われてはいけない。言うまでもなく、文化や価値観の押し付けはよくない。人が平等だという事、男女が平等だという事自体が先進国で近年「主流」の価値観にすぎない。どのように考えるかは個人の自由なのだ。だが、文化相対主義も望ましくない。手放しですべての文化や価値観を容認は出来ない。

 こちらが明らかに合理的で正しいのだからと言って一方的に、時に武力を以って特定の文化を根絶させる行為は最低だが、残虐な行為を見てもよその事だから、ものの見方は文化に相対的な物だからとずっと知らん顔をしているのも如何なものかと思う。

 キーワードは「自己批判」だ。他者を一方的に批判する自文化中心主義を避けつつも、異文化との相互批判を可能にする唯一の方法こそが、絶えざる自己批判である。これを欠く時点でそれは自文化中心主義に過ぎず、異文化を批判するに値しない。単なる自文化の押し付けである。自らの文化に対し常に批判的である者のみが、異文化に対しても批判をし得るのだ。

 批判はお互いのためになる。批判を通して今までなかった考えに触れる良い機会であり、自分の文化や価値観を押し付ける事なく相手に伝える事が出来るのだ。無論、相手の文化を尊重する事も忘れてはいけない。頭ごなしに批判するのではなく、どこが良くないのか、どこが良いのかを明らかにする必要がある。自らの文化が完全ではない事を認識し、時には異文化に学ぶ姿勢も忘れないで欲しい。

 そして、冒頭で少し触れたように「合理性」が全てではない事も忘れないで欲しい。合理性に文化の正しさを求めるならば、先進国の文化も間違った文化と言える。合理性は万能の尺度ではないのだ。

 異文化について考える際にどのような態度を取るかは、グローバル化が進展する昨今非常に重要な問いの一つである。もちろん異文化を受け入れたくないと思うならそれでいい。異文化をよそはよそというスタンスで考えてもよい。しかし、考え方は個人の自由と思考を放棄せずに、それが多少の問題を孕んでいる事だけは心に留めておいて欲しいと思う。

ヒューリスティクスとバイアス・空気を読む事とマイノリティ

 人は何のために空気を読むのか。それは社会の秩序を守るためでも雰囲気を壊さないためでもなく、当該社会やコミュニティ内で村八分を避け、円満な人間関係と相互支援の枠組み内での地位を確保するためと言える。社会において全ての人間が空気を読む事で、結果として社会の秩序が保たれて良い雰囲気になっているに過ぎない。

 社会の秩序が維持され良い雰囲気である事は一見望ましい事だが、それは社会的マジョリティの価値観を基調としている。そのため生きづらさや、窮屈さを感じつつも空気を読んでいる人も多くいるだろう。価値観、平たく言えば物の見方や考え方がマジョリティのそれと違う人物は、自己の価値観を抑圧し、マジョリティの価値観に合わせる必要があるのだろうか。

 ここで主張したいのは、空気を読む事が必ずしも最善策ではないという事だ。人間は全て個人の功利を最大化するために行動している。これはある程度妥当な考えで、個人の行為は一見利他的な物も含めて全てを利己心に還元可能だ。要望があれば詳しく欠くが、ここでは割愛する。

 今回さらに、全ての人が必ずしもどの行為が真に功利を最大化するものかを理解できていないという二つ目の前提を設けようと思う。これも妥当な前提と言えるだろう。もしそんな物がわかれば苦労はしない。否定し難い事実として人間はしばしば判断を誤る。我々にできる事は自分の知っている知識の中のみで、可能な限り幸福を追求する程度だろう。

 それでは、人々は何を基準に意思決定をするのだろうか。ここで役立つのがヒューリスティクスバイアスの考えだ。バイアスについてはわかるだろう。ヒューリスティクスとは便宜的な解決方法のことで、経験則に近いものである。100%正しい判断をできるとは限らないが、一定程度高い確率で正しい判断をできる物を表す。慎重な思考より短時間で意思決定を可能にさせる分、正確さが低くなる特徴がある。人間の意志決定にはヒューリスティクスが強く関わっており、そこにはバイアスが絡んでいる事があるという考え方を前提に話を進めたい。

 せっかくなので「代表性ヒューリスティクス」「利用可能性ヒューリスティクス」「調整とアンカリングヒューリスティクス」という有名な三種類のヒューリスティクスうち、最初の二つについてとその具体例を挙げてより理解を深めてもらいたい。

 「代表制ヒューリスティクス」とは、特定のカテゴリにAが属する可能性を問われた場合、特定のカテゴリの特徴とAの特徴がどの程度似ているかで、その可能性を評価してしまう意思決定プロセスである。

 例えば、あなたの前に二人の女性がいたとしよう。一人の女性Xは155cmで、もう一人の女性Yは175cmである。他の特徴は類似している。どちらか一方がプロのバレーボール選手である。さて、Xがバレーボール選手である可能性とYがバレーボール選手である可能性のどちらが高いと言えるだろう。

 一般的に、Yが高いと判断するのが妥当だろう。無論ポジションにもよるのだが、基本的にバレーボール選手は背が高いという特徴を持っているという認識は普遍的だと言える。この時特定のカテゴリにあたるのがプロのバレーボール選手、Aが女性XとYになる。実際には160cm弱のバレーボール選手もいるし、170cmを越えるただの主婦もいるが、バレーボール選手のイメージには高身長というバイアスがかかっているのでヒューリスティクスのみでは100%に近い精度でそれを当てる事はできない。

 「利用可能性ヒューリスティクス」は、想起しやすい事柄、つまり印象の強い思い出や直近の出来事を思い返してある出来事を評価する意思決定プロセスだ。

 アメリカにおいて、銃による殺害者数と自殺者数のどちらが多いかをアメリカ人に聞いたら、あるいは日本人でも、おそらくはほとんどの人が殺害者数のほうが多いと答えるだろう。しかし実際には自殺者数の方が多い事が分かっている。これは日頃銃殺事件や凶悪犯罪ばかりが報道でクローズアップされ、個人の拳銃自殺はあまり注目されない事が原因に挙げられる。この時、想起しやすい事柄が銃殺事件や凶悪犯罪の報道である。この事例は利用可能性ヒューリスティクスが原因で起こった誤りと言えよう。

 さて、話が大いに横道に逸れたので本題に戻ろう。私が言いたかったのは、日々の意志決定の基準になっているこれらのヒューリスティクスは前述のように精細さを欠くため誤りを起こしやすいという事だ。人生は選択の連続である。その機会があまりにも多すぎるため全てについて思慮を巡らす事は不可能に近い。それゆえ、極めて重大な意思決定以外はヒューリスティクスを基準に物ごとを考える事になる。結果として私たちの日常における意思決定は必ずしも正しくないのだ。

 これと空気を読むことと何の関係があるかを考えたい。人が何のために空気を読むかという事は前述した通りだ。しかし、全ての場面において自己を抑圧し空気を読む事を優先するという選択が最善とは言えない。それにもかかわらず、殊に日本においては空気を読む事は社会における至上命題かのように扱われている。

 なぜか、それは「空気を読まないと村八分を食らう」「村八分を食らうと人は生きていけない」「孤独は辛い」「多くの人物に認められる事が重要」などといったバイアスがかかっているからである。また、社会的に孤立した人物の自殺や凶行がニュースで流される度に、空気を読まず社会から分断される事の恐怖は強まっていく。敢えて空気を読まずに行動する方が行為者の利得を最大化する事も明らかにあるのだが、その可能性は前述したヒューリスティクスによってかなり過小に見積もられる。

 空気を読むのと読まないのとではどちらがいいかはケースバイケースだが、自分の経験や知識から普段空気を読まなかった人物を思い浮かべ、さらに孤独な人間の印象深い末路を思い浮かべ、「代表性ヒューリスティクス」と「利用可能性ヒューリスティクス」を二重に用いる結果、常に空気を読む選択肢が最善のように思えてしまうのだ。

 ここで厳しい思いをするのが社会的マイノリティである。前述のようにマジョリティの価値観に沿って行動する事が空気を読む事に等しい。それ故にマイノリティは、場面によっては自己を抑圧してでも空気を読まないとロクな事にならないという発想に至る。前述したような空気を読まない事によって起こる「孤独」へのバイアスを取りはらえる事が出来れば楽だ。しかし、「自分は自分のように生きればいいし、大勢の人間に認められる必要は特にない」「自分の価値観を認めてくれる人も少しはいるので完全な孤独というわけでもない」と思えるようになるのは容易ではない。誰にも理解されず孤独に生きながら後に大成した過去の偉人を見ても、自分は偉人ではないからと諦めるのが関の山だろう。ヒューリスティクスに基づいて生き方を決定しているうちは、苦しいままである。

 このような問題について社会的マジョリティに訴えかけても仕方がない。彼らは困っていないのだから。社会的マイノリティで、自らの価値観を抑圧して日々苦悩している人は、ヒューリスティクスではなく深い考察から自分の生き方を見出してほしい。自らが変わるしか方法はない。簡単な事ではないが、それを取り払う事ができればかなり楽になる。それらのバイアスはマジョリティが幸福に暮らすために意図的にせよ無意識にせよ社会に植え付けているバイアスに過ぎない。それに負けて自己を抑圧しないでほしいと思っている。真に自らの功利を最大化させる生き方はヒューリスティクスからは導き出せない事もあるのだ。そしてそれは、敢えて空気を読まない事で実現できる事もある。

 最後に一つ言っておきたいのは、これは何でも自分の好きにやれという話ではない。それはあなたの功利を最大化させない。ときには我慢する事も重要だ。それはマジョリティですらやっている。マジョリティの価値観に合わせて我慢をする事がバイアスでも何でもなく事実として自らのためになる事は忘れないでほしい。

 どうか、マイノリティである事を無理してやめようとしないで欲しい。あなたたちはOne of themではないのだから、One of them になろうとするよりも自分を信じて自分らしく生きた方が幸せなのだ。One of themは似通った価値観から似通ったものしか作り出さないが、マイノリティは独創的で、斬新な物を作り出せる。長い目で見れば、あなたの方が豊かな生活を送れる可能性は高いと言えるだろう。無論、そのためにはものの見方、生き方の転換が必要だ。無理にとは言わないが、少し考えて見て欲しいと思う。

 僻みから、人と違う自分に酔ってるなどと揶揄している人物は無視して構わない。彼らは村人Aとして生まれ死んでいく事へのコンプレックスとそうでない人物への嫉妬からそのように口走ってしまうだけなので、言わせておいてあげよう。逆に、マジョリティへの羨望は進歩へのバネにしてほしい。愚痴や批判で終わらせるのは勿体無い。

 この文章自体、私の価値観をベースに書いたものに過ぎない。幸福の概念も私の価値観に基づいているので、これに賛同して生き方を変えれば必ず良い方向に向かうとは保証しない。容認して欲しい訳ではないし、批判的な立場の人は自身の生き方を貫いてくれればそれでいい。今回の記事が自らの物の見方や考え方に悩み、良い生き方を模索する人への手がかりの一つ程度になれば嬉しいと思っている。

ミクロとマクロの視点から見る障害者と社会 ②

さて、今回は次回の続きということで、マクロの観点から障害者と社会について考えよう。

 障害者がいなくなればいいという主張の中には、「彼らが税金で賄われているから」という点が含まれている。重度の障害者は生産性がないので社会に貢献せず、ただ国庫から金が出て行くだけという主張だ。今回はこの主張になぞらえて、粗野ではあるが経済的な観点から物を見よう。確かに、有り体に言ってしまうと障害者がいなければそこにかけている分の金は減る。その分を生産性が見込める事業や人物に充てた方が、国全体としては良いかもしれない。軽度の障害者に関しては変わらず政府が援助をすることで普通の生活を送りある程度の生産性を維持できるだろうし、巨視的に考えると社会全体をいい方に持っていくように見える。しかし、雇用の減少という問題もある。介護施設や特別支援学校で働いている人や、身体障害者を助ける器具を開発、販売している会社の社員などはお先真っ暗である。仕事が途端になくなるのだ。決して小さい数字ではない。これらの人々の職を失わせることと、障害者に払っていた国の金が浮く分とを天秤にかけなければいけない。

 無論、社会の幸福は生産性やGDPで全て説明できる物ではない。そもそも私が前述した側面が経済的な影響の全てではないし、経済的な要因のみを根拠に障害者の安楽死を始める訳にもいかない。例のごとく粗末な結論で申し訳ないのだが、今まで書いてきたような要素をキーワードにこれを読んだ方が自身でこの問題について考えてくれるきっかけになることが今回の狙いだ。抽象的でぼんやりした内容になってしまって申し訳ないと思うが、筆者自身立場を決めかねているのだ。それぞれが色々な立場と視点から、障害者と社会の付き合い方について深く考えて欲しい。くれぐれも、小中高と培ってきた道徳教育に完全に依拠した考えはやめて欲しいと思う。それが反対であれ賛成であれ、既存の価値観のみに囚われることなく自分の中でしっかりと考察して欲しい。

 最後に一つ、この問題に絡んだ興味深いデータを挙げて今回は終わろうと思う。

 日本のいくつかの病院グループで実施された胎児の染色体異常などを調べる出生前診断で、異常が発見された親の97%は中絶を選択している。