マキシミンルールが作り出す虚構

 

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 次回予告をしておいてペペロンチーノの作り方を投稿してしまい申し訳ないと思う。過去の記事では基本的人権の有無について話をした。そこから実際にあるか無いかとは別の問題で、人々が基本的人権という「概念」を尊重することは合理的な選択であるとし、その解説を先送りにしていた。

 今回はこの疑問に答える事を目標としよう。キーワードは「マキシミンルール」と「虚構」だ。

 まずは「マキシミンルール」について説明しよう。聞きなれない言葉だと思われる。ミニマックス解と言えばピンとくる人もいるかもしれない。厳密な意味はここでは置き、おおまかに「最悪の状況を想定し、その最悪の状況において最大の利益を得られるように行動する」というルールだとする。例えば保険商品を購入する事は、病気や事故などの最悪の事態において保険金を得る事で、その状態では最大の利益を得られるという期待に基づいて行動していると言える。

 さて、このルールを用いて基本的人権という概念が(私の見解では存在しないにも関わらず)意義を持ち、存在し続ける理由を説明しよう。

 マキシミンルールは将来の不確実性と切っても切れない関係にある。何が起きるかわかっていれば、例えば病気も事故も起こらないと知っていればわざわざ最悪の事態を想定して保険商品を買うといった行為はしないだろう。或いはそれらの出来事が既知であれば、回避することもできる。しかし、実際に未来において何が起きるかを知る事はできない。だから人々は保険商品を買うのだ。

 基本的人権という概念の尊重も、全く同じ理論で説明される。各々が最悪の状況、つまり基本的人権が一切存在しない社会において落伍した場合を想定し、それは回避したいという意思が基本的人権を支えているのである。

 もしも基本的人権という概念がなければ、どんなことが起こるだろう。例えば自由権が無ければ、政府が国民を好きなように徴用してタダ働きをさせることができる。経済活動の自由がなければ職業や住む場所を選ぶことはできない。

  わかりやすく言うと、基本的人権の概念がなかった時代に逆戻りしてしまうのだ。基本的人権が尊重されていない国で生活しなければいけないとと考えてもいい。持つものであれば困らないが、持たざる者はまともに生きる事すらままならない。そして、先ほど述べたように我々は将来何が起こるかを知る事はできないという背景があるのだ。

 前述したように、基本的人権がないような社会で何か大きな失敗を犯したり、不運に苛まれてしまったりすると何が起きるか分からない。歴史を省みるに、基本的人権という概念がないと我が身に恐ろしい悲劇が降りかかりそうだと言う事は分かる。「奢れる者は久しからず」とはよく言ったもので、今が良いからといってこれからも良いとは限らない。

 そうなってくると、多くの人間がマキシミンルールから基本的人権という虚構を作り出して尊重する事は合理的な選択だと言える。いつ何が起こるかわからない世の中で取り返しのつかないような事が起きたとしても、生きていけるような仕組みを作っておこうという意思が基本的人権を支えているのだ。

 日本を含む現代の民主主義国家では基本的人権が所与のものであり、前述したような基本的人権に関する意識は希薄かもしれない。しかし、基本的人権が尊重されなくなっても困らないという人はおそらくいないだろう。我々は意識するとしないとに関わらず、憲法にしか根拠のない「虚構」である基本的人権を尊重すべきだと考えているのだ。

 今回の議論は「基本的人権の存在を示す具体的な根拠が何一つないにも関わらず、マキシミンルールによって確固たる地位を得ている」という以上の何かがあるわけではない。今回はマキシミンルールという概念について理解していただければと思う。

 マキシミンルールは政治哲学などに用いられる極めて重要な概念である。社会的な正義や公平さを考える上で欠かすことの出来ないロールズの主張に出てくるのでなんとなく知っていた人もいるかもしれない。或いは利他的な行為の根拠をマキシミンルールに求めるという事も可能である。

 暗黙の了解や道徳原理といった物の背景にマキシミンルールを見出し、それが想定する最悪のケースはそれを設定した人物ないし集団だけでなく自分にとっても最悪かどうかを判断できるようになれば、無意味な規則や圧力を気にする必要は無くなる。

 他にも仕事や保険契約、交渉など様々な場面で役に立つルールなので、ぜひ覚えておいて欲しい。