理論経済学は間違っている?(後編)

 

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 前回は理論経済学と実験経済学の乖離について具体例を紹介しながら見て行った。その上で当然抱くであろう、理論経済学は間違っているのか?という疑問について、3つの観点から否定していこうと思う。

 1つには、前回示した例はそれ自体が非現実的なゲームであるということを理解して欲しい。理論経済学のいくつかの仮定が非現実的であることと同じくらいに最後通牒ゲームも非現実的ではないだろうか。二者間で何らかのものを分配するケースなら両者に交渉の権利があるだろうし、仮にセッティングと同様の一方的な関係にしても、Bが拒否権を発動するとAの取り分もなくなるようなケースは現実にはそうそうない。

 最後通牒ゲームと異なりセッティング自体は我々の生活の中に存在しそうなゲームであっても、最初から理論経済学批判をするために数値や内容が設定されているようなケースもある。そのような実験は得てして少し数字を変えるだけで理論との乖離が証明されなくなってしまう。そこから得られる知見は、せいぜい「理論の通りに行かないような例外がない事もない」程度だ。

 一方で現実の経済現象では理論経済学によって得られた知見を応用した予測が適切に働くケースも多くある。経済学者のミルトン・フリードマンは合理的経済人などの非現実的に見える仮定についてある程度の問題を認めつつも、実際に正しい予測が出来ている以上問題はなく、それを批判している人物がより優れた予測を可能にしない限りこの批判には意味がないとしている。

 そして2つ目、経済学の理論はあくまで「モデル」の設定をしているに過ぎないことも理解して欲しい。世の中の経済的な事柄は様々な要因が絡んで起こっている。そこには「市場」の外にある数値に変換できないような要因も多く存在する。その全てを勘定に入れて経済について考えることは不可能に近い。そこで、いくつかの単純化されたモデルをベースに経済問題を考えることで、少しでも容易に経済問題を紐解くために理論経済学が存在するのだ。

 理論経済学が存在しないと、経済学は無法地帯と化すだろう。様々な経済現象に対する分析や対処は全て「ケースバイケース」となってしまう。結果として問題解決のためのアプローチや主義主張が乱立してしまい、身動きが取れなくなってしまうのだ。(実験経済学は実験をすればいいわけだから理論経済学がなくてもいいのではないかと思う人もいるかもしれないが、そうは行かない。それについては後述しよう。)

 そのような事態を防ぐために、ある程度統一された方針を与えるのが理論経済学だ。経済問題に対して理論経済学で導出されたモデルを用いつつも、モデルにおける仮定と異なる部分について適宜内容を調節することで比較的容易に経済問題に取り組むことが出来るのである。

 おそらく、理論経済学に携わる経済学者の殆どは全てのケースに適応可能なモデルの作成が殆ど不可能なことを理解している。同様に、経済学において重要とされるようなモデルが実は非現実的な仮定を孕んでいることも理解しているだろう。その上で、そのような非現実な仮定を外しつつ望ましい結果を得る事ができるような理論を作る研究も日々行われているのだ。

 経済学の講義でも序盤は非現実的な仮定をおきつつ基礎的な理論について学び、そのあとでそのような仮定を少しずつ外して考えて見るという手法が取られている。いきなり現実に限りなく近い条件を設けて経済学について考えることは難しすぎる。序盤に学んだ理論が手掛かりとなることで理解を容易にしているという点からも、非現実的な仮定に基づく経済理論にも意味があると言えるだろう。

 最後に、経済学における仮定のうち特に合理的経済人などの仮定は形而上学的な仮定であって、それを経験的に批判すること自体が不毛であるということについても言及しよう。これに関しては丁寧に説明しようと思うとかなり時間がかかるので簡単に触れようと思う。ラカトシュ・イムレという科学哲学者の論を借りると合理的経済人という仮定は理論のコアにあるもので、それを批判することは意味をなさないのだ。

 理論経済学は合理的経済人の仮定をコアにこれまで進んできた「研究プログラム」であり、仮に実験経済学が理論経済学よりも優位である事を示したいのならば、コアを批判するのではなく理論経済学が新たな予測を導かずにコアの防御に終始する「退行的研究プログラム」であり、一方の実験経済学は新たな発見や高精度の予測を可能にするような成長を伴う「前進的研究プログラム」であることを証明しなければならない。

 その証明と合理的経済人の仮定が正しいか否かということは別問題なのである。少々雑な説明になってしまったので、興味がある人はラカトシュの著作などを読んでほしい。

 以上3つの理由から理論経済学は間違っている!と断じるのは些か軽率と言えるのではないだろうか。

  また、実験経済学は実験経済学で、人を対象とした実験特有の深刻な問題を抱えている。ここでは2つに絞って見ていこう。

 1つ目は純粋な要因以外を排除することの難しさだ。あるAという事象の要因をBと考えて実験を行うときに、CやDといった余計な要因を排除しなければ正しい実験結果は得られない。あるいは、αという事象の要因がβであると予想できるような実験結果が得られたが、実際にはその実験を行った際に存在したがγが真の要因だったということもあるかもしれない。

 人間を対象とする実験では、そのような誤った実験結果を齎らしかねない要因の排除が難しい。人間が同じ問題に対してもその時の様々なコンディションによって異なる対応をすることは言うまでもない。まして、明らかに何かの実験を行なっており自分の行動が監視、記録されているような状態では通常通りの行動が観察できると考えないほうがいいだろう。実験室は我々が日頃経済活動を行っている場とは異なる特殊な環境であるという点は注意が必要である。

  2つ目は、全ての理論に対して実験が行えないという問題だ。先ほど理論経済学がないと経済学がなんでもありになってしまうと述べた上で、実験経済学も無関係ではない事についてほんの少し言及したと思う。それはまさにこの問題に関連している。

 最後通牒ゲームであったり「アレの逆説」や「エルズバーグの壺」(どちらも調べれば簡単に出てくるので各自参照してほしい)であったり、あまり大掛かりな準備を必要とせず社会に与える影響の少ないような実験は容易に行える。しかし、マクロ経済政策に関わるような理論や公共経済に関わるような理論は実験を行うにも観測対象が極めて大きく、社会に与える影響も同様に大きいため実験を行うことは実質不可能に近い。実験経済学で得られる知見は今の所程度が限られていることは注意しなければならない。

 もちろん、この2点から実験経済学はダメだ!と言うつもりもない。私は前回と今回で経済学のネガティブ・キャンペーンをしたくてこのブログを書いているわけではないのだ。最後に私が今回一番伝えたかった事を書いて終わりにしようと思う。

 これまで書いてきたように、理論経済学には様々な問題点があることが実験経済学の進歩によって明らかになってきた。しかし、一方の実験経済学にも欠点があるということも示した。この問題を論じる際に重要なのは、どちらが正しくどちらが間違っているかという観点から批判をする態度ではなく、両者を相互補完関係としお互いのより一層の成長のために相互批判を行おうという態度である。

 少なくとも全ての人間が合理的かつ個人主義的に行動するという仮定そのものが正しいと信じている人間はいない。しかしその仮定があるお陰で結果として現実の経済現象を適切に描写できるケースも多々ある。理論経済学は実験経済学から得られた知見を元により精緻な理論を組み立て、実験経済学は理論経済学ではカバーできない分野の記述を行うというのが理想的な両者の関係ではないのだろうか。理論経済学が実験経済学は車軸の両輪となることで、経済学のより一層の進歩が叶えばと思う。

 ここまで経済のみで話をしてきたが、日頃の意思決定においても理論と実践(経験)とを両立させることはきっと役に立つ筈である。複雑な物事に対処する上で一般化された理論にのみ囚われるのではなく、自らの経験のみで判断するのでもなく、その両者を動員することで最善の意思決定が行えるように気をつけて見て欲しい。