マイノリティに対する寛容さは義務ではない

 皆さんはLGBTの人たちについてどう思うだろう。統合失調はどうか。発達障害の人はどうだろうか。私は前者については特に何とも思わないし、後者についてはその存在から疑義を呈したいと思うが、それは別の機会にしようと思う。適切かどうかはさておき、今回はこれらの人々をひとくくりにしてマイノリティとしよう。

 昨今の風潮として、これらの人々に対して嫌悪感を示す事がタブー視されている。

 私はこのような風潮には疑問を禁じ得ない。疑問は二つある。一つは、「この風潮は前提からして自己矛盾を孕むのではないのか」という疑問、もう一つは「何故嫌なものは嫌と言ってはいけないのか」という疑問だ。

 個別に見ていこう。一つ目の疑問は、「この風潮は前提からして自己矛盾を孕むのではないのか」という物だ。何故マイノリティに対して寛容でなければいけないのか。今流行りのダイバーシティとやらが前提にあるのだろうか。仮にそうだとしたら、これは明らかな矛盾を意味する。ダイバーシティは多様性を意味する。ダイバーシティの考え方からマイノリティに対して寛容であるべきという考えは、画一化された観念だ。明らかに多様性を欠いているではないか。

 価値観の多様性を訴える人間が陥りがちな過ちとしてよく見られるのが、「価値観の多様性を認めるべき」という一つの価値観を他者に押し付けてしまうという行為である。「マイノリティに対する寛容は当然」のような風潮もこれと同じだ。真に価値観の多様性を認めるべきだと考えている人は、価値観の多様性を認めない人間すらも一つの物の見方として認める事が出来る。これができない人間に寛容や多様性を語る資格は無い。

 二つ目の疑問が、「何故嫌なものは嫌と言ってはいけないのか」である。本来人は嫌なものは嫌だという権利がある。社会がそれを縛りつける事などあってはならない。LGBTが気持ち悪いと思う人もいて、それは個人の自由である。もちろん、言論の自由を盾に個人を批判、侮辱していい道理はない。それは放埓であって自由では無い。

 しかし、ここでよく考えてほしい。日頃マイノリティに対して寛容たるべきだと考えているあなたは、特によく自らを省みて欲しい。あなたはロリコンについてどう思うだろうか。ショタコンはどうだろう。ペドフィリアや獣姦はどうだろうか。もう少し具体的に考えよう。例えばあなたは電車の座席に座っていて、隣に一人の男性が座ったとする。男性のカバンには雑誌が入っていて、あなたはうっかりそのタイトルを見てしまった。どうせならタイトルはインパクトがあると良い。「スク水小○生中出しレイプ」にでもしておこう。私の趣味では無い。これは絶対に忘れないで欲しい。

 さて、あなたはどんな反応をするだろう。嫌な顔をするだろうか。持っていた雑誌の概要と気持ち悪いという旨をツイートするだろうか。会話のネタにして笑うかもしれない。それらは、マイノリティに対して寛容たるべきであるという命題と相反する反応だ。その男性はLGBTの人々と同様に、性的趣向が一般的な人とは異なる。しかし、何か罪を犯している訳では無い。何故レズ、ゲイ、バイセクシャルトランスジェンダーには寛容でなければいけないのに、他の性的趣向についてはそのような態度をとるのだろうか。

 もう一つ別の話をしよう。ある人物Aがいたとする。Aは特徴として、時間にルーズ、計画性がない、すぐ物を忘れたり無くしたりする、落ち着きがない、会話が苦手、などが挙げられる。あなたはAをどう思うだろうか。学校の同じクラスにいたとして、仲良く出来る自信があるだろうか。Aが同じバイト先に入ってきて、シフトがいつも被っていたらどう思うだろう。あなたが会社でAの上司だとしたらどうだろうか。Aを叱責したり、Aの愚痴を言ったりしない自信はあるだろうか。

 私はAが同僚や部下なら彼本人にも怒るし、愚痴もいう。クラスメイトだとして仲良くしたくない。あいつはクズだと悪口を言うかもしれない。何故ならAは人を怒らせる事、人に迷惑をかける事ばかりするからだ。この主張に何か問題があるようには思えない。ごく自然な反応ではなかろうか。

 ではAが発達障害だと分かったらどうだろう。先ほど挙げたAの特徴は、ADHDの諸症状からピックアップしたものだ。こうなってくると急に及び腰になる人が出てくる。ADHDであるという事が所与の場合、愚痴や叱責、冷遇や嫌悪が許されないような風潮がてくる。ちょっとでもそういう素振りを見せると、「理解のない人」の烙印を押される。場合によっては自分が冷たい態度をとられるようにすらなる。

 AがADHDでない場合は、ほとんどの人が冷たい態度をとったり、怒ったりすると思う。その差は一体何だろう。これは障害に対する哲学的問いに繋がるので深く掘り下げる事は避けるが、それが個人の性格という範囲なのか、障害なのかの線引きは決して明確ではない。それを念頭に、各々よく考えて見て欲しい。

 話を元に戻そう。「何故嫌なものは嫌と言ってはいけないのか」という疑問だ。「何故日頃嫌なものは嫌と言うのに、対象がLGBT精神障害になるとそれが許されなくなるのか」という表現の方が正しいかもしれない。我々は個々人の好き嫌いに応じて自らの行動を決める権利があるにもかかわらず、昨今ではそれを一部制限するような考え方が大手を振るっている。これのどこがおかしくないのだろうか。

 もちろん、マイノリティに対して寛容である事はあなたの自由だ。しかし、非論理的で合理性を欠いた言動や主張はやめて欲しい。多様性を尊重するべきだと思うなら、そう思わない人を攻撃することはやめるべきだ。それが出来ないなら多様性などと謳わず、「自分が寛容であるべきだと思った対象についてお前らも寛容であるべきだ」と言って欲しい。LGBTに対して理解を示すべきなら、何故他の性的趣向は受け入れないのだろう。何となくLGBTについてはOK、でも他の特殊性癖は気持ち悪い。これのどこが「寛容」なのだろうか。LGBTQという表現をする人でさえ、このような問題を抱えているケースが多い。精神疾患の人には理解を示して、単におかしな人や怠け者には厳しくする理由は何だ。あるいは、逸脱行動をしても精神疾患を盾にすれば許してもらえるのだろうか。

 マイノリティに対する寛容さは義務ではない。それは個々人が決める事だ。我々には嫌なものは嫌と言う自由がある。寛容を誰かに強要することも社会の風潮が人々に圧力をかけることも間違っている。

 正直な話、これから先どんどんおかしな人たちに病名や名称がついていって、健常者が社会やそれらの人々から寛容を要求される世界になっていったらもう御仕舞いだと思う。どう思いどう行動するかはこちらが決める事だ。

 

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 以前マイノリティに関する記事を書いたので、興味がある人はそちらにも目を通して欲しい。今回は全体的に冷たい雰囲気だったが、そちらではもう少し人間的な事を書いたつもりである。