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異文化との付き合い方

 今回は随分と大きなテーマだ。異文化との付き合い方、特に先進国と発展途上国における文化の相違とその捉え方について考えていく。

 異文化との交流において取られうる立場のうち、両極端にあるのが文化相対主義と自文化中心主義だ。この二つがどのような立場なのか、具体例を交えつつ考えてみよう。

 アフリカのいくつかの国や地域では女性器切除が行われている。手術方法は極めて粗野なもので、不衛生な状況下で麻酔無しで行われる事が多く、使われる道具に関しても医療用のものとは程遠い場合が一般的だ。主な理由としては、大人になるための通過儀礼であったり、女性が淫乱にならないための処置であったりと様々だが、それが存在する明確な説明や社会的な利益はあまりない。

 さて、ここであなたはどのような立場を取るだろうか。これが前述した二つの考え方に関わってくる。先進国一般で受け入れられている西洋的なものの見方、科学的なものの見方を受け入れている人物からすると、女性器切除が合理的とは言えないだろう。中には女性器切除は根絶されるべきだと考える人もいると思われる。そのような人は何を根拠に批判するのだろうか。非合理性だけで批判するなら先進国で行われている宗教行事や祭事もアウトなので、おそらく「人権」や「女性の権利」などの概念を引用する事になる。

 ここで考えて欲しいのは、「人権」や「女性の権利」などの概念自体が、西洋的なものの見方にルーツを持つという点だ。自然科学は基本的には普遍的なもので、イギリスでもガーナでも物を燃やすと酸素が消費されるし、イタリアでもアンゴラでも林檎が木から離れて地面に落ちず宙に浮いていくなんて事はまず起こらない。では西洋的なものの見方も同様に普遍的なものかと聞かれると、必ずしもそうとは言い切れない。

 この問いに対して、「人権」や「女性の権利」などの概念、さらに言えば西洋的なものの見方が全世界共通の普遍的なものだと考えるのが自文化中心主義である。それは言ってしまえば自分の文化が持つ価値観を、異文化に対してより優れていて正しいものとして押し付けている事になる。

 これに相反する立場が、文化相対主義だ。文化相対主義には以下に挙げるようにいくつかの前提がある。

① 異なる文化にはそれぞれ異なるものの見方がある。

② あるものの見方はその内部では合理的である。

③あるものの見方が合理的であるか(または正しいか間違っているか)を客観的に判断できる基準はない。

④すべてのものの見方は文化に相対的である。

 

 これらの前提から、西洋的なものの見方、前述した概念も数あるものの見方の一つに過ぎないと考えられる。

 この考え方には大きく分けて3つの背景があると言われている。一つは啓蒙と称して侵略を続けた植民地時代への反省、もう一つは異文化に対して寛容であるべきという概念、そして最後は異文化に対する軽蔑を表したくないという気持ちだ。

 ものの見方に寛容である事は良い。かつて啓蒙と称して侵略を繰り返したのは自らの先祖である。その反省としての文化相対主義であり、異文化の尊重が重要視されているのだ。

 しかし、文化相対主義にも問題がある。それは「二重の批判の難しさ」というものだ。二重というからには、二つの側面から批判を困難にする要因がある。

 一つ目は「外部からの批判の難しさ」だ。ナチス政権下での反ユダヤ主義政策や、かつてアメリカで行われていた奴隷制度は、文化相対主義の前提に則れば当時の国内では合理性を持つ事になる。外国からは批判できないし、現代のドイツ人やアメリカ人も自国における過去の行いについて批判できない。これは明らかに問題があるだろう。反ユダヤ主義奴隷制の是非は別として、著しい人権無視や大量殺戮を問題視した人間が外部から批判不可能な状況は望ましくない。問題があると思われる政策や文化を一切批判できない事も問題だが、後述するもう一つの批判の難しさと相まって救いようのない自体が起こり得る。

 そのもう一つの難しさが、「内部からの批判の難しさ」である。アパルトヘイトを例に考えよう。文化相対主義において、アパルトヘイトは国内で合理性を持つ事になる。そうすると、被差別者側はそれを批判できないのだ。アパルトヘイトに限らず、社会における同調圧力、物理的・精神的な圧力や強制力に対抗する力や地位がない人間は、それを批判せずに服従するしかない。これは致命的すぎる。差別や迫害、それに基づく肉体的、精神的苦痛が終わる事なく続くのだ。さらに致命的なのは、前述した「外部からの批判の難しさ」のせいで、外から助けてくれる人もいないという状況である。迫害も、差別も、弾圧も、一度始まってしまえば二度と手を出せない。何故なら、それらの行為はある地域やある国内では合理性を持つイデオロギーに則って行われ、それを客観的に間違っているとは言えず、内外共に誰も批判をし得ないからだ。

 自文化中心主義は良くないが、かといって文化相対主義にも大きな欠点がある事が分かっている。それでは異文化に対してどのような立場を取るべきなのだろうか。

 幼い頃から何事も程々が大切だと教わってきたと思う。食べ過ぎも食べなさすぎも体に良くない。全く運動しないと体に悪いが、オーバーワークは体を壊す。異文化に対する態度もそれと同じだ。自文化相対主義であるか、文化相対主義であるかの両極端に囚われてはいけない。言うまでもなく、文化や価値観の押し付けはよくない。人が平等だという事、男女が平等だという事自体が先進国で近年「主流」の価値観にすぎない。どのように考えるかは個人の自由なのだ。だが、文化相対主義も望ましくない。手放しですべての文化や価値観を容認は出来ない。

 こちらが明らかに合理的で正しいのだからと言って一方的に、時に武力を以って特定の文化を根絶させる行為は最低だが、残虐な行為を見てもよその事だから、ものの見方は文化に相対的な物だからとずっと知らん顔をしているのも如何なものかと思う。

 キーワードは「自己批判」だ。他者を一方的に批判する自文化中心主義を避けつつも、異文化との相互批判を可能にする唯一の方法こそが、絶えざる自己批判である。これを欠く時点でそれは自文化中心主義に過ぎず、異文化を批判するに値しない。単なる自文化の押し付けである。自らの文化に対し常に批判的である者のみが、異文化に対しても批判をし得るのだ。

 批判はお互いのためになる。批判を通して今までなかった考えに触れる良い機会であり、自分の文化や価値観を押し付ける事なく相手に伝える事が出来るのだ。無論、相手の文化を尊重する事も忘れてはいけない。頭ごなしに批判するのではなく、どこが良くないのか、どこが良いのかを明らかにする必要がある。自らの文化が完全ではない事を認識し、時には異文化に学ぶ姿勢も忘れないで欲しい。

 そして、冒頭で少し触れたように「合理性」が全てではない事も忘れないで欲しい。合理性に文化の正しさを求めるならば、先進国の文化も間違った文化と言える。合理性は万能の尺度ではないのだ。

 異文化について考える際にどのような態度を取るかは、グローバル化が進展する昨今非常に重要な問いの一つである。もちろん異文化を受け入れたくないと思うならそれでいい。異文化をよそはよそというスタンスで考えてもよい。しかし、考え方は個人の自由と思考を放棄せずに、それが多少の問題を孕んでいる事だけは心に留めておいて欲しいと思う。