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黄金律と多数派の専制、エゴイズム

 我々は幼い頃、親や先生などから「自分がされて嬉しい事を人にしなさい」「自分がされて嫌な事を人にしてはいけません」という二つのルールを幾度となく説かれてきた。所謂「黄金律」である。しかし、親や先生は「世の中には色んな価値観の人がいる」「自分がされて嬉しい事が嬉しくない人、自分がされて嫌な事が嫌じゃない人がいる」という事の説明に関しては、それほど力点を置かないか、殆ど教えてこない。

 

 多数派の専制がすくすくと成長する土壌の完成である。基本的には、人々が黄金律に沿って生活をしていても何ら問題がない。問題が発生するのは、「一般的な」人々=多数派の価値観と異なる人物=少数派相手にも黄金律を適用しようとした時である。自分は黄金律に従って行動してるのに、どうも相手の反応や様子がおかしい。相手は自分がされて嫌な事を平気でしてくる。ここで価値観の違いに気づければ問題ないのだが、そうはいかない場合もある。「親切にしてやってるのに」「良心が痛まないのか」などと言い始めるとどうも雲行きが怪しい。その様にいう人は、時には少数派に対して我儘、KY、恩知らずといったような誹りをぶつけてみる。「人の気持ちが分からないのか」と言う人は、実際には「一般的な」人の気持ちしか理解していない。しかし、彼らはそれ以外に人の気持ちは存在しないと思っているのだ。

 

 多数派の人間にとって、自分と異なる価値観の人間は、黄金律に基づく平穏で幸福な社会を破壊する人間に映る。言い換えるならば、「黄金律の信徒」にとって少数派は排斥すべき「異端者」なのだ。これについては後述するが、本当は少数派も黄金律に沿って動いている時でさえ、黄金律の盲目的で熱心な信徒はそれに気づく事ができない。それどころか社会の秩序や幸福の為には邪魔な存在だとすら考える。多数派は基本的に少数派よりも強い。様々な方法で少数派を抹殺し得る。我々はそこに、多数派の専制の真骨頂を見て取れる。

 

 何故一見利他的な黄金律がこのような悲劇を招くのか。それは単にこの黄金律が利他的ではなく利己的なルールだからである。単純な話で、多数派の「自分がされて嬉しい事」「自分がされて嫌な事」が一致しているため、全員がそのルールに沿う事で、結果として個々人の幸福を最大化することが出来るのだ。他者を幸せにしたいという純粋で無償の隣人愛ではなく、自分に対して他者が利してくれるような環境を作るために必要な条件としての隣人愛である。だからそのシステムを乱す人物がいると困るのだ。多数派と価値観の異なる人物が思うように行動する事が出来てしまうと、多数派の幸福は短期的には必ずしも増加しえない。それどころか減少する事すらあり得る(「短期的には」という点は後日功利主義の話をする時に述べるのでここでは置いておこう)。仮に少数派が黄金律に従って動いていても、多数派の目には他者を思いやらず勝手に行動しているように映りかねない。いずれにせよ、多数派の価値観と異なる人物は、多数派の幸福最大化にとって邪魔なのだ。

 

 このような事から、多数派が黄金律を信じ、少数派を攻撃、非難する行為は、利己的な人々が自己利益の追求のために少数派を犠牲にする行為と考えて差し支えないと言える。極めて純粋で強力なエゴイズムが、このルールを流布し、広めている。繰り返しになるが黄金律は利他的に見えるだけで、どこまでも利己的だ。キリストの「為せ」は決してそのような意図ではなかったにせよ、後年には多数派の幸福最大化に必要なルールになっている。

 

 恐らく殆どの人は、黄金律が自己利益を最大化する事になるロジックに気づいていない。気づいていないからこそ尚更恐ろしい。本当に黄金律が利他的なルールだと思っている人間は、少数派が我を通そうとすると、それが利己的な悪に見えてしまいかねない。或いは前述の通り、本人は黄金律に沿って利他的に行動しているつもりでも、多数派には利己的な悪に見えてしまう事もあるだろう。相手が悪である以上、利他的で、正義であるこちらはいくら攻撃していいと思ってしまう事はとても恐ろしい。多数派の専制が多数派=正義という概念までも与えられてしまうと、少数派はいよいよ立つ瀬がないだろう。こうして多数派は少数派を容易に、かつ正義の下に抹殺し得る訳である。

 

 この文章が幼少期より我々が刷り込まれてきた黄金律を考え直す契機となれば、それは私にとってこの上ない喜びである。とは言え、人は自由に何をしてもいいと言いたい訳ではない。黄金律そのものを用いつつも、少数派の幸福を多数派の幸福と同時に実現する事は可能だ。それには価値観の相違を認める事、それを尊重する事が多数派に取っても少数派に取っても「自分がされて嬉しい事」だと気づく事が不可欠だ。少数派も少数派で、時には一旦我慢をする事で得られる幸福が、長期的には我慢しなかった場合に得られた機会費用としての幸福よりも大きくなる場合と、そうでない場合をよく見極めて行動したほうが良いだろう。何でも我慢する事も、何でも押し通す事も、最良の結果を生まない事は留意して頂きたい。とはいいつつも、私は人の本性そのものが利己的だと考えているので、前述したような理念は理念のままで、実際には実現しえないと思っている。多数派からすれば少数派の価値観を理解し尊重するよりも、それを押しつぶして自らの安寧と幸福を実現するほうが楽で、最善の策にも見えなくはない。本性が利己的な人間により構成されている社会で、どのように少数派が自らの幸福を最大化し得るか、ひいては多数派も含め全体として幸福を最大化し得るかについては、またの機会に述べたいと思う。

 

 「我儘」という言葉を使う時は少し気をつけたほうがいい。自分を含む多数派の意見に従わない人物を「我儘」と非難し、時に「我儘を言うな」と従うように強いる事は、多数派の「我儘」を無理やり通しているだけではないのだろうか。