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貧困恐怖症者の倫理と資本主義

 皆さんは「プロテスタンティズムの倫理と資本主義」という本をご存知だろうか。マックス・ヴェーバーの記した通称「プロ倫」は、経済学や経済史学を学ぶ者にとっての必読書の一つである。中身について詳しく知らない方は各自検索をして欲しい。

 プロ倫の中で今回私がクローズアップしたいのは、カルヴァンの予定説がユグノー達にもしかしたら自らは救済されないかもしれないという恐怖をもたらし、その恐怖から逃れ安心を得るために、彼らは禁欲的で勤勉に働くという方法をとった点だ。ここでは何故ユグノー達が勤勉な労働者たる事を選んだかについても説明が長くなるので省略する。スマホなり何なりで調べていただきたい。とにかく、ここでキーワードとなるのは「恐怖」だ。彼らの熱心な労働の源泉、そして資本主義発展の源泉が「恐怖」にあった事、現在でも別の「恐怖」が資本主義を支えている事についての考察が今回の目的である。

 報道番組や時にはバラエティ番組でさえ、私たちはしばしば貧困に苦しむ人々をフューチャーしたプログラムを見ると思う。あなたはそこでどう思うのだろうか。「こんな人々がいる一方で奢侈にふける人々がいるような社会は歪んでいる」と思うのか、はたまた「自分には関係のない話だ」と思うのか、或いは「自分はこうはなりたくない」と思うのか。この、「自分はこうはなりたくない」という貧困に対する「恐怖」こそが現代において、かつてユグノー達が抱いた恐怖と似たような働きをしていると言えないだろうか。

「貧困は恐ろしい」、「お金がないと生きていけない」、と我々は資本主義社会におけるガイドラインを刷り込まれている。だから沢山勉強をして、良い中学良い高校良い大学に入って、大手上場企業に就職すればとりあえずは一安心だとも刷り込まれる。直接にそういう人は少ないにせよ、社会はそれとなく我々に資本主義のシステムを教え、それに沿って人生を送るように手ほどきをしてくれるのだ。しかも近年は終身雇用システムが崩れ、一度就職すれば安心という環境は昔話になりつつある。人々はいつ貧困が待ち受けているかと思うとおちおち休んではいられず、蓄財に慢心する事になるのだ。

 テレビでは事故や病気で人生の軌道が大きくそれた人々を紹介し、CMに入ると保険会社はこの保証ではまだ足りないその保証でもまだ足りないとどんどん保証の範囲を広げている。備えあれば憂いなしとは言ったものだが、現代においてはいくら備えがあろうと憂いは消えない。映画『ボウリング・フォー・コロンバイン』におけるマリリン・マンソンの言葉を借りれば、「恐怖と消費の一大キャンペーン」だ。マンソンはこれをアメリカ社会に向けて言ったが、日本でも起こっている事はさして変わらない。

 この貧困を恐れる人々は資本主義の発展に好都合だ。彼らはとにかく熱心に努力して熱心に働く。多少賃金が低くても-特に日本では-仕事を辞めて再就職というのは極めて厳しいので(実際にどうかは別としてそう考えられている)、生活水準を保つためには勤続するしかない。時には無理をしてでも働く必要がある。企業にとってはありがたい話だ。不当な賃金でも従業員は働き続ける。もし退職しても社会の側が勝手に企業ではなく退職した人間を、根気がないだの怠慢だのと叩いてくれる。またその一方で企業は消費者の恐怖を煽り続ける。防犯グッズや防災グッズは飛ぶように売れるし事故や病気の恐怖を煽り続ければ保険会社も製薬会社も安泰だ。消費者は恐怖を解消するためにまんまと企業の誘導に沿って様々な商品を買う。商品を買うにはお金がかかる。だから働く。貧富の差は広がるが、人々にとって問題はそれ自体ではなく、自らが「貧」の側に区分されてしまう事だ。このシステムに見事にフィットするよう洗練された私たち現代人は、資本主義社会の発展に大きく貢献しているといって良いだろう。

 こんな風に長々と資本主義の病弊について書いていると共産だとでも思われそうだが僕は自助努力の存在しない「みんな平等」な共産世界で何が起きたかなんてことは言われなくても知っている。政治的にも保守派だし何もこれを資本主義はやめて共産主義になろうという意味で書いている訳ではない。ただ、実際問題として貧困への恐怖がどれほど資本主義を支え発展させているかは興味深い問題ではないだろうか。

 こういうプロ倫のオマージュみたいなタイトルで本出したら結構売れそうだなと思う。もう出てるかもしれないけど。