ヒューリスティクスとバイアス・空気を読む事とマイノリティ

 人は何のために空気を読むのか。それは社会の秩序を守るためでも雰囲気を壊さないためでもなく、当該社会やコミュニティ内で村八分を避け、円満な人間関係と相互支援の枠組み内での地位を確保するためと言える。社会において全ての人間が空気を読む事で、結果として社会の秩序が保たれて良い雰囲気になっているに過ぎない。

 社会の秩序が維持され良い雰囲気である事は一見望ましい事だが、それは社会的マジョリティの価値観を基調としている。そのため生きづらさや、窮屈さを感じつつも空気を読んでいる人も多くいるだろう。価値観、平たく言えば物の見方や考え方がマジョリティのそれと違う人物は、自己の価値観を抑圧し、マジョリティの価値観に合わせる必要があるのだろうか。

 ここで主張したいのは、空気を読む事が必ずしも最善策ではないという事だ。人間は全て個人の功利を最大化するために行動している。これはある程度妥当な考えで、個人の行為は一見利他的な物も含めて全てを利己心に還元可能だ。要望があれば詳しく欠くが、ここでは割愛する。

 今回さらに、全ての人が必ずしもどの行為が真に功利を最大化するものかを理解できていないという二つ目の前提を設けようと思う。これも妥当な前提と言えるだろう。もしそんな物がわかれば苦労はしない。否定し難い事実として人間はしばしば判断を誤る。我々にできる事は自分の知っている知識の中のみで、可能な限り幸福を追求する程度だろう。

 それでは、人々は何を基準に意思決定をするのだろうか。ここで役立つのがヒューリスティクスバイアスの考えだ。バイアスについてはわかるだろう。ヒューリスティクスとは便宜的な解決方法のことで、経験則に近いものである。100%正しい判断をできるとは限らないが、一定程度高い確率で正しい判断をできる物を表す。慎重な思考より短時間で意思決定を可能にさせる分、正確さが低くなる特徴がある。人間の意志決定にはヒューリスティクスが強く関わっており、そこにはバイアスが絡んでいる事があるという考え方を前提に話を進めたい。

 せっかくなので「代表性ヒューリスティクス」「利用可能性ヒューリスティクス」「調整とアンカリングヒューリスティクス」という有名な三種類のヒューリスティクスうち、最初の二つについてとその具体例を挙げてより理解を深めてもらいたい。

 「代表制ヒューリスティクス」とは、特定のカテゴリにAが属する可能性を問われた場合、特定のカテゴリの特徴とAの特徴がどの程度似ているかで、その可能性を評価してしまう意思決定プロセスである。

 例えば、あなたの前に二人の女性がいたとしよう。一人の女性Xは155cmで、もう一人の女性Yは175cmである。他の特徴は類似している。どちらか一方がプロのバレーボール選手である。さて、Xがバレーボール選手である可能性とYがバレーボール選手である可能性のどちらが高いと言えるだろう。

 一般的に、Yが高いと判断するのが妥当だろう。無論ポジションにもよるのだが、基本的にバレーボール選手は背が高いという特徴を持っているという認識は普遍的だと言える。この時特定のカテゴリにあたるのがプロのバレーボール選手、Aが女性XとYになる。実際には160cm弱のバレーボール選手もいるし、170cmを越えるただの主婦もいるが、バレーボール選手のイメージには高身長というバイアスがかかっているのでヒューリスティクスのみでは100%に近い精度でそれを当てる事はできない。

 「利用可能性ヒューリスティクス」は、想起しやすい事柄、つまり印象の強い思い出や直近の出来事を思い返してある出来事を評価する意思決定プロセスだ。

 アメリカにおいて、銃による殺害者数と自殺者数のどちらが多いかをアメリカ人に聞いたら、あるいは日本人でも、おそらくはほとんどの人が殺害者数のほうが多いと答えるだろう。しかし実際には自殺者数の方が多い事が分かっている。これは日頃銃殺事件や凶悪犯罪ばかりが報道でクローズアップされ、個人の拳銃自殺はあまり注目されない事が原因に挙げられる。この時、想起しやすい事柄が銃殺事件や凶悪犯罪の報道である。この事例は利用可能性ヒューリスティクスが原因で起こった誤りと言えよう。

 さて、話が大いに横道に逸れたので本題に戻ろう。私が言いたかったのは、日々の意志決定の基準になっているこれらのヒューリスティクスは前述のように精細さを欠くため誤りを起こしやすいという事だ。人生は選択の連続である。その機会があまりにも多すぎるため全てについて思慮を巡らす事は不可能に近い。それゆえ、極めて重大な意思決定以外はヒューリスティクスを基準に物ごとを考える事になる。結果として私たちの日常における意思決定は必ずしも正しくないのだ。

 これと空気を読むことと何の関係があるかを考えたい。人が何のために空気を読むかという事は前述した通りだ。しかし、全ての場面において自己を抑圧し空気を読む事を優先するという選択が最善とは言えない。それにもかかわらず、殊に日本においては空気を読む事は社会における至上命題かのように扱われている。

 なぜか、それは「空気を読まないと村八分を食らう」「村八分を食らうと人は生きていけない」「孤独は辛い」「多くの人物に認められる事が重要」などといったバイアスがかかっているからである。また、社会的に孤立した人物の自殺や凶行がニュースで流される度に、空気を読まず社会から分断される事の恐怖は強まっていく。敢えて空気を読まずに行動する方が行為者の利得を最大化する事も明らかにあるのだが、その可能性は前述したヒューリスティクスによってかなり過小に見積もられる。

 空気を読むのと読まないのとではどちらがいいかはケースバイケースだが、自分の経験や知識から普段空気を読まなかった人物を思い浮かべ、さらに孤独な人間の印象深い末路を思い浮かべ、「代表性ヒューリスティクス」と「利用可能性ヒューリスティクス」を二重に用いる結果、常に空気を読む選択肢が最善のように思えてしまうのだ。

 ここで厳しい思いをするのが社会的マイノリティである。前述のようにマジョリティの価値観に沿って行動する事が空気を読む事に等しい。それ故にマイノリティは、場面によっては自己を抑圧してでも空気を読まないとロクな事にならないという発想に至る。前述したような空気を読まない事によって起こる「孤独」へのバイアスを取りはらえる事が出来れば楽だ。しかし、「自分は自分のように生きればいいし、大勢の人間に認められる必要は特にない」「自分の価値観を認めてくれる人も少しはいるので完全な孤独というわけでもない」と思えるようになるのは容易ではない。誰にも理解されず孤独に生きながら後に大成した過去の偉人を見ても、自分は偉人ではないからと諦めるのが関の山だろう。ヒューリスティクスに基づいて生き方を決定しているうちは、苦しいままである。

 このような問題について社会的マジョリティに訴えかけても仕方がない。彼らは困っていないのだから。社会的マイノリティで、自らの価値観を抑圧して日々苦悩している人は、ヒューリスティクスではなく深い考察から自分の生き方を見出してほしい。自らが変わるしか方法はない。簡単な事ではないが、それを取り払う事ができればかなり楽になる。それらのバイアスはマジョリティが幸福に暮らすために意図的にせよ無意識にせよ社会に植え付けているバイアスに過ぎない。それに負けて自己を抑圧しないでほしいと思っている。真に自らの功利を最大化させる生き方はヒューリスティクスからは導き出せない事もあるのだ。そしてそれは、敢えて空気を読まない事で実現できる事もある。

 最後に一つ言っておきたいのは、これは何でも自分の好きにやれという話ではない。それはあなたの功利を最大化させない。ときには我慢する事も重要だ。それはマジョリティですらやっている。マジョリティの価値観に合わせて我慢をする事がバイアスでも何でもなく事実として自らのためになる事は忘れないでほしい。

 どうか、マイノリティである事を無理してやめようとしないで欲しい。あなたたちはOne of themではないのだから、One of them になろうとするよりも自分を信じて自分らしく生きた方が幸せなのだ。One of themは似通った価値観から似通ったものしか作り出さないが、マイノリティは独創的で、斬新な物を作り出せる。長い目で見れば、あなたの方が豊かな生活を送れる可能性は高いと言えるだろう。無論、そのためにはものの見方、生き方の転換が必要だ。無理にとは言わないが、少し考えて見て欲しいと思う。

 僻みから、人と違う自分に酔ってるなどと揶揄している人物は無視して構わない。彼らは村人Aとして生まれ死んでいく事へのコンプレックスとそうでない人物への嫉妬からそのように口走ってしまうだけなので、言わせておいてあげよう。逆に、マジョリティへの羨望は進歩へのバネにしてほしい。愚痴や批判で終わらせるのは勿体無い。

 この文章自体、私の価値観をベースに書いたものに過ぎない。幸福の概念も私の価値観に基づいているので、これに賛同して生き方を変えれば必ず良い方向に向かうとは保証しない。容認して欲しい訳ではないし、批判的な立場の人は自身の生き方を貫いてくれればそれでいい。今回の記事が自らの物の見方や考え方に悩み、良い生き方を模索する人への手がかりの一つ程度になれば嬉しいと思っている。

ミクロとマクロの視点から見る障害者と社会 ②

さて、今回は次回の続きということで、マクロの観点から障害者と社会について考えよう。

 障害者がいなくなればいいという主張の中には、「彼らが税金で賄われているから」という点が含まれている。重度の障害者は生産性がないので社会に貢献せず、ただ国庫から金が出て行くだけという主張だ。今回はこの主張になぞらえて、粗野ではあるが経済的な観点から物を見よう。確かに、有り体に言ってしまうと障害者がいなければそこにかけている分の金は減る。その分を生産性が見込める事業や人物に充てた方が、国全体としては良いかもしれない。軽度の障害者に関しては変わらず政府が援助をすることで普通の生活を送りある程度の生産性を維持できるだろうし、巨視的に考えると社会全体をいい方に持っていくように見える。しかし、雇用の減少という問題もある。介護施設や特別支援学校で働いている人や、身体障害者を助ける器具を開発、販売している会社の社員などはお先真っ暗である。仕事が途端になくなるのだ。決して小さい数字ではない。これらの人々の職を失わせることと、障害者に払っていた国の金が浮く分とを天秤にかけなければいけない。

 無論、社会の幸福は生産性やGDPで全て説明できる物ではない。そもそも私が前述した側面が経済的な影響の全てではないし、経済的な要因のみを根拠に障害者の安楽死を始める訳にもいかない。例のごとく粗末な結論で申し訳ないのだが、今まで書いてきたような要素をキーワードにこれを読んだ方が自身でこの問題について考えてくれるきっかけになることが今回の狙いだ。抽象的でぼんやりした内容になってしまって申し訳ないと思うが、筆者自身立場を決めかねているのだ。それぞれが色々な立場と視点から、障害者と社会の付き合い方について深く考えて欲しい。くれぐれも、小中高と培ってきた道徳教育に完全に依拠した考えはやめて欲しいと思う。それが反対であれ賛成であれ、既存の価値観のみに囚われることなく自分の中でしっかりと考察して欲しい。

 最後に一つ、この問題に絡んだ興味深いデータを挙げて今回は終わろうと思う。

 日本のいくつかの病院グループで実施された胎児の染色体異常などを調べる出生前診断で、異常が発見された親の97%は中絶を選択している。

ミクロとマクロの視点から見る障害者と社会 ①

 昨年、相模原市にある介護施設で利用者が大量に殺害される事件が起こった。その時に議論に上がったのが、犯人の以下の主張である。

「障害者は社会的に不要だから死ぬべきだ」

 彼は特に、知的障害者や重複障害者が社会に不要だということを主張している。今回はこの主張についてミクロ=個々人からの視点と、マクロ=社会全体からの視点から考察しようと思う。今回はかなり長くなってしまうので二回に分けて投稿する。

 まずはミクロの視点からだ。あなたの身の回りには一般的に障害者と言われる方がいるだろうか。身体障害でも知的障害でも構わない。いるとして、どの程度の距離感だろうか。一切いない。住んでいる町でたまに見かける。近所に住んでいる。同じ学校だった。交流がある。身内である。など色々だろう。その人のことを思い浮かべて欲しい。

 あなたはその彼または彼女を不要な人間だと思うだろうか。これは前述した関係性の程度にもよるだろう。もしもあまり関わりがない、または全く関わりがないとしたら「いなくなっても自分には関係ない」程度で「個人の観点」のみから他人に対して「いなくなればいい」とまで思うのは、嫌な思い出でもない限り自然とは思えない。

 一方で、家族は何とも言えない。障害と一言でいっても程度や種類によって色々あるが、自分の子や兄弟、親を殺してしまいたいと思うケースでは障害の程度が重いと考えられる。

 2年前、和歌山県父親精神障害を持つ娘を殺害する事件が起こった。娘から妻への暴力を見かねての犯行だったという。このような事例を目の当たりにすると、障害をもつ家族と一緒に過ごし続ける上である日ストレスが自分の許容量を超えてしまう事が起こり得るのだと否定できない。無論全ての家庭がそうとは限らないだろう。この事例においても父親は初めから娘がいなくなればいいと思っていたとは限らないし、殺害の瞬間においてもそれは苦渋の選択で、決して娘がいなくなればいいと思っての行動とは言い切れない。しかし、家族でさえ、寧ろ家族だからこそ犯人に賛同しないにせよ同じような感情を抱く事があるのかもしれない。

 介護の現場で働く人はどうだろうか。日頃障害者の方々と接している身としてはどう思うのだろうか。しばしば問題になるのは介護施設での入所者に対するいじめや暴力だ。介護の現場は人手不足や薄給など労働環境が悪い事が問題視されており、職員のストレスも相当なものになると言える。その結果として暴言や暴力という行為があるのだろう。しかし、彼らの仕事は障害者の介護であり、彼らが死んでしまえば当面は路頭に迷うことになる。度重なるストレスから殺意を抱く可能性がありつつも、その殺意は間接的に自らをも苦しめかねないという矛盾の中に介護職員が置かれている。介護職員は他人とも家族ともまた違った問題を抱えている。

 今回はミクロの視点から障害者と社会について考えた。次回はマクロの視点から考えて見よう。

私立大学等経常費補助金問題

 下らない大学に億単位で税金を投入して、一体誰のためになるのだろうか。(反語)

 私立の大学には、教育サービスや学習環境の改善のため私立大学等経常費補助金というものが給付される。運用は国ではないが、財源は国からだ。現在、平均して1校あたり5億ほど助成金を受け取っている。交付金は大きく二つに分けられる。一つは学生や職員の人数で決まる一般補助だ。もう一つは特色ある研究をしている大学やその他規定の事業に力を入れている大学に別途充てられる特別補助である。例えば先日ジャングルジムを燃やした学生が所属する大学なら、平成27年の交付額は約四億円だ。

 ここで一つ、簡潔に私の体験を書こうと思う。先日私は大学構内にあるベンチで昼食をとっていた。するとある男性二人がこう話しかけてきた。

「現在国が大学に出してくれている補助金は不十分で、このままでは学費を上げるか設備や授業の質を低下せざるを得ない状況です。今政府に対して助成金の交付額を引き上げて貰うために署名活動をしているので、よろしければご協力下さい。」

 とのことだ。話を聞けば彼らは私の大学の職員である。無論私としてもそれが叶えばそれに越したことはないので署名をしたわけだが、正直な意見として助成金を受けている大学全てが増加を実感できるレベルまで助成金額全体を増やすことは難しいだろう。一校あたり平均5億で、受給している大学は約500だ。相当な額を追加投入しなければ相対的な増加分は極めて低いものとなる。

 この問題の本質は国が出してくれる予算の低さではなく、その配分にある。前述の通り、ジャングルジムを燃やした例の大学には年額4億が払われている。私立大学等経常費補助金で調べると、他にも驚くような大学、俗な言い方をすれば「Fラン」と呼ばれる大学に信じがたい額が払われている事が分かるのだ。私が今回のブログで最初に述べた一文はこの事を指摘している事がお分かりいただけたかと思う。

 暴論との誹りを覚悟で言うが、そのような大学に通うというのは金をドブに捨ててるのと似たような話である。逆に言ってしまえば、ドブに捨てるだけの大金があるなら学費が今より高かろうが問題はないだろう。助成金を減らそうが切ろうが、元々行ったところで意味があるかも怪しい大学にどうしても行きたいなら行けばいいのだ。行かなくてもFラン卒が高卒になる程度で大差はない。

 もっとマシな使い方は幾らでもできる。補助金削減で浮いた部分をレベルの高い大学に回し、学費を抑えるなり研究環境をよりよくするなりした方が未来の日本のためにもなる。国公立大学なら私立より安い学費を更に大きく削れるかもしれないし、国からの研究費用が極めて少ないという問題もある程度解決出来るかもしれない。私立大学の学費も今よりは幾分か安くなるだろう。教員に対する給与アップは教育の質を上げることにもつながる。非常勤講師の待遇も改善出来る。

 実際に削減するならば、レベルの高い大学に合格する事を、親の収入などの外的要因に依らず可能にしなければ行けない。そのために給付奨学金の創設をし、成績優秀でありながら経済的に困難を抱える人物を手助けする事もできる。奨学生はそれを生活費に回しても良いし、塾の月謝を払って高校入試、大学入試のために勉強をするのも良い。いずれにせよその使途は今のように無駄遣い同然ではいけない。

 大学によっては学業が奮わずともスポーツにおいて優秀な成績を収めているところもある。そのような大学にはスポーツ振興として使途を限った助成金を出してもいいかもしれない。大学の部活を経てそのままプロの世界に入る人もいる以上、優秀な選手が良い環境で練習を出来るようにする事も有意義な使途の一つではなかろうか。

 このまま書き続けると異様に長いブログが出来上がってしまうので、不完全ではあるがこの辺で切りあげようと思う。まだまだここで書ききれていない、想像され得る批判とそれに対する反駁は多くある。何かあったらコメントしてほしい。