ミクロとマクロの視点から見る障害者と社会 ①

 昨年、相模原市にある介護施設で利用者が大量に殺害される事件が起こった。その時に議論に上がったのが、犯人の以下の主張である。

「障害者は社会的に不要だから死ぬべきだ」

 彼は特に、知的障害者や重複障害者が社会に不要だということを主張している。今回はこの主張についてミクロ=個々人からの視点と、マクロ=社会全体からの視点から考察しようと思う。今回はかなり長くなってしまうので二回に分けて投稿する。

 まずはミクロの視点からだ。あなたの身の回りには一般的に障害者と言われる方がいるだろうか。身体障害でも知的障害でも構わない。いるとして、どの程度の距離感だろうか。一切いない。住んでいる町でたまに見かける。近所に住んでいる。同じ学校だった。交流がある。身内である。など色々だろう。その人のことを思い浮かべて欲しい。

 あなたはその彼または彼女を不要な人間だと思うだろうか。これは前述した関係性の程度にもよるだろう。もしもあまり関わりがない、または全く関わりがないとしたら「いなくなっても自分には関係ない」程度で「個人の観点」のみから他人に対して「いなくなればいい」とまで思うのは、嫌な思い出でもない限り自然とは思えない。

 一方で、家族は何とも言えない。障害と一言でいっても程度や種類によって色々あるが、自分の子や兄弟、親を殺してしまいたいと思うケースでは障害の程度が重いと考えられる。

 2年前、和歌山県父親精神障害を持つ娘を殺害する事件が起こった。娘から妻への暴力を見かねての犯行だったという。このような事例を目の当たりにすると、障害をもつ家族と一緒に過ごし続ける上である日ストレスが自分の許容量を超えてしまう事が起こり得るのだと否定できない。無論全ての家庭がそうとは限らないだろう。この事例においても父親は初めから娘がいなくなればいいと思っていたとは限らないし、殺害の瞬間においてもそれは苦渋の選択で、決して娘がいなくなればいいと思っての行動とは言い切れない。しかし、家族でさえ、寧ろ家族だからこそ犯人に賛同しないにせよ同じような感情を抱く事があるのかもしれない。

 介護の現場で働く人はどうだろうか。日頃障害者の方々と接している身としてはどう思うのだろうか。しばしば問題になるのは介護施設での入所者に対するいじめや暴力だ。介護の現場は人手不足や薄給など労働環境が悪い事が問題視されており、職員のストレスも相当なものになると言える。その結果として暴言や暴力という行為があるのだろう。しかし、彼らの仕事は障害者の介護であり、彼らが死んでしまえば当面は路頭に迷うことになる。度重なるストレスから殺意を抱く可能性がありつつも、その殺意は間接的に自らをも苦しめかねないという矛盾の中に介護職員が置かれている。介護職員は他人とも家族ともまた違った問題を抱えている。

 今回はミクロの視点から障害者と社会について考えた。次回はマクロの視点から考えて見よう。

私立大学等経常費補助金問題

 下らない大学に億単位で税金を投入して、一体誰のためになるのだろうか。(反語)

 私立の大学には、教育サービスや学習環境の改善のため私立大学等経常費補助金というものが給付される。運用は国ではないが、財源は国からだ。現在、平均して1校あたり5億ほど助成金を受け取っている。交付金は大きく二つに分けられる。一つは学生や職員の人数で決まる一般補助だ。もう一つは特色ある研究をしている大学やその他規定の事業に力を入れている大学に別途充てられる特別補助である。例えば先日ジャングルジムを燃やした学生が所属する大学なら、平成27年の交付額は約四億円だ。

 ここで一つ、簡潔に私の体験を書こうと思う。先日私は大学構内にあるベンチで昼食をとっていた。するとある男性二人がこう話しかけてきた。

「現在国が大学に出してくれている補助金は不十分で、このままでは学費を上げるか設備や授業の質を低下せざるを得ない状況です。今政府に対して助成金の交付額を引き上げて貰うために署名活動をしているので、よろしければご協力下さい。」

 とのことだ。話を聞けば彼らは私の大学の職員である。無論私としてもそれが叶えばそれに越したことはないので署名をしたわけだが、正直な意見として助成金を受けている大学全てが増加を実感できるレベルまで助成金額全体を増やすことは難しいだろう。一校あたり平均5億で、受給している大学は約500だ。相当な額を追加投入しなければ相対的な増加分は極めて低いものとなる。

 この問題の本質は国が出してくれる予算の低さではなく、その配分にある。前述の通り、ジャングルジムを燃やした例の大学には年額4億が払われている。私立大学等経常費補助金で調べると、他にも驚くような大学、俗な言い方をすれば「Fラン」と呼ばれる大学に信じがたい額が払われている事が分かるのだ。私が今回のブログで最初に述べた一文はこの事を指摘している事がお分かりいただけたかと思う。

 暴論との誹りを覚悟で言うが、そのような大学に通うというのは金をドブに捨ててるのと似たような話である。逆に言ってしまえば、ドブに捨てるだけの大金があるなら学費が今より高かろうが問題はないだろう。助成金を減らそうが切ろうが、元々行ったところで意味があるかも怪しい大学にどうしても行きたいなら行けばいいのだ。行かなくてもFラン卒が高卒になる程度で大差はない。

 もっとマシな使い方は幾らでもできる。補助金削減で浮いた部分をレベルの高い大学に回し、学費を抑えるなり研究環境をよりよくするなりした方が未来の日本のためにもなる。国公立大学なら私立より安い学費を更に大きく削れるかもしれないし、国からの研究費用が極めて少ないという問題もある程度解決出来るかもしれない。私立大学の学費も今よりは幾分か安くなるだろう。教員に対する給与アップは教育の質を上げることにもつながる。非常勤講師の待遇も改善出来る。

 実際に削減するならば、レベルの高い大学に合格する事を、親の収入などの外的要因に依らず可能にしなければ行けない。そのために給付奨学金の創設をし、成績優秀でありながら経済的に困難を抱える人物を手助けする事もできる。奨学生はそれを生活費に回しても良いし、塾の月謝を払って高校入試、大学入試のために勉強をするのも良い。いずれにせよその使途は今のように無駄遣い同然ではいけない。

 大学によっては学業が奮わずともスポーツにおいて優秀な成績を収めているところもある。そのような大学にはスポーツ振興として使途を限った助成金を出してもいいかもしれない。大学の部活を経てそのままプロの世界に入る人もいる以上、優秀な選手が良い環境で練習を出来るようにする事も有意義な使途の一つではなかろうか。

 このまま書き続けると異様に長いブログが出来上がってしまうので、不完全ではあるがこの辺で切りあげようと思う。まだまだここで書ききれていない、想像され得る批判とそれに対する反駁は多くある。何かあったらコメントしてほしい。